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ハインリヒ・ルドルフ・ヘルツの経歴プロフィールを紹介

物理-歴史・伝記

ハインリヒ・ルドルフ・ヘルツ(Heinrich Rudolf Hertz 1857/2/22-1894/1/1)

 

ドイツの物理学者、電磁波の存在証明し、周波数の単位は彼の名前にちなんで(Hz:hertz:ヘルツ)います。

 

ハンブルクのユダヤ教からキリスト教に改宗した家庭に生まれた。父はハンブルク市の顧問、母は医者の娘ででした。学校では数学と自然科学に興味を持ち、時間が有れば本を読んでいるといったすごい勉強家で、高等学校を終えるとフランクフルト(Frankfurt)へ行き、そこの建設局で働きながら1年間勉強をしていました。1876年からベルリン(Berlin)で軍関係のボランチアをしながら ミュンヘン工科大学に入学しようとして学習していましたが、総合大学のミュンヘン大学に進んで、学術研究をしたいと考えるようになりました。1878年ミュンヘン大学に入学しました。

初め数学を学び、数学的才能を開花させ増したが、物理学に強くひかれ、数学と物理学の両方に共通した課題に興味を示すようになりました。

ミュンヘン大学は設備の良く整った物理実験室を持っており、そこで様々な実験を行うようになり実験物理学に没頭します。

1878年夏にミュンヘン大学の研究課程にいるとき、教師のすすめによって、ベルリン大学へ行きました。

そこでヘルムホルツ(Hermann von Helmholtz)と運命的な出合いをし、彼はヘルツの才能を見抜き、マクスウェル数式化した電磁理論の重要な課題を実験的に証明するように薦めました。しかし、ヘルツはその結果を出すには三年位かかると判断し、その実験を断り、かわりに僅か3ケ月で伝導体の回転に於ける電磁誘導に関する理論的な研究を仕上げて、優等をもって卒業しました。

1880年にキルヒホッフ(Gustav Kirchhoff)とヘルムホルツの指導学生として、博士号を取得(Ph.D. degree magna cum laude)、1883年までは、ヘルムホルツの門下生でした。

1883年キール大学の理論物理学の講師になりましたが、不運なことにキール大学には物理実験室がなく、理論的研究しかできず、つマクスウェルの電磁方程式に関する理論的探究がここでなされ、後に役立つことになります。

1885年にキール大学は彼に助教授のポストを提供しますが、彼はこれを断ります。ちなみに、彼の後を引き継いだのはマックス・プランクでした。

1885年には、カールスルーエ工科大学の正教授となり、そこで電磁波を発見します。

カールスルーエ大学には設備の整った実験室ガあり、以前ヘルムホルツが提案したマクスウェルの方程式の実証をすることにし、4年後には実証に成功しました。

この研究こそマクスウェルが理論的に予想した電磁波の存在と、マクスウェルが明らかにしていなかったその空中伝播を実験的に実証したものだったのです。

 

1886年にダイポールアンテナを開発し、このアンテナは中央から振動する電気を供給して電磁波を放射し、受信できるものです。このアンテナは単純で実用的なものです。先端に大きな球が付いた1メートルの導線に接続して、それを2個対にし、この回路が共振することで電磁波を放射させるものです。

彼は火花放電発生装置として(Heinrich Daniel Ruhmkorff)が発明したRuhmkorffコイル(spark generator)を使用していて、その出力を彼が発明したアンテナに接続したものです。この実験で、マクスウェルが予測した電気信号が空間を伝わることを証明し、その速度を測定し、光の速度に等しいことを証明しました。

1887年に電磁波の発生と受信と光電効果の観測結果について公表(Journal Annalen de Physik)しています。

その受信機はスパークギャップコイル(火花放電用の間隙のある環)で、暗箱内において火花の発生を目視することによって電磁波の検出を確認できるものでした。

このスパークギャップを見やすくするために暗箱に入れると火花を検出できる距離(発生源からの)が短くなることに気付きました。さらに、電磁波の発生源との間に硝子板を置くと検出できる距離が短くなる現象があり、そこで、紫外線を吸収しない石英ガラスを使用してみたら、火花を検出できる距離に変化が無いことを確認しました。この現象は紫外線の吸収に関係があるように見えました。しかし、このような現象がなぜ起きるのかを説明することは出来ませんでした。後にアインシュタインが紫外線が当ると電荷が失われることに注目した光電効果の確立に寄与しました。そのほかにも電磁波の特性について研究していて、アンテナから電界と磁界が放射状に放射されますが、その形状はアンテナを頂点とする円錐形であることも示していてます。 また、電波はいろいろな物質中を伝わることも見つけています。更に、電磁波は横波で有限な速度(光速)で伝わり、反射、屈折、偏り等、光と同じ性質を持っていることも確認しました。しかし、彼自身この発見が持つ重要性を理解できませんでした。それは「この実験は偉大なマックスウェルの方程式が正しいことを証明しただけで、目で見ることも出来ない神秘的な電磁波を獲得しただけで、これは無駄なことである」と彼が言っていることです。しかし、彼の言葉とは正反対に、難しすぎてあまり注目されていなかったマックスウェルの方程式でしたが、それが正しいことが確認され一躍注目を浴びることになります。しかし、既にマックスウェルは死亡(1879/11/5)していたのです。

この実験が更なる大きな飛躍を生み出すことになります。電磁気学の領域を拡大し、この実験装置は無線通信機器の出発点になりました。この発見が後に多くの人々に伝わり、新な「無線時代」をもたらすことになるとは、彼には思いもよらぬことでしょう。もっと驚くことは、 アインシュタインがこの方程式を知り、そのなかに特殊相対性理論で最も重要な光速度不変の法則に関する大きなヒントが、このの方程式の中に隠されていることにに気付きます。それは、光の速度を示す式には変数が含まれていないことです。すなはち、光の速度は一定(不変)であることを示していました。

 

 当時、電磁波の発見はエーテルの存在を実証したものと受け止められていました。

水が波を伝えるように、音の波は空気が圧力の変化を伝えます。電磁波も光も波であるとすれば、当然それを伝える媒質があると考えられていました。 その媒質はデカルトやニュートン時代からエーテルであり、空間はエーテルで満たされていて、当然、地球もエーテルの中を走っていると考えられていました。そこで、1887年にマイケルソンとモーリーは地球の走る方向とその直角の方向とでは光の速度に差が出るだろうし、季節によっては地球の進行方向が変わるので光の速度に明確な差が出ると予想して実験しましたが、その測定結果は光の速度はあらゆる方向に対して同じであり、地球はエーテルに対して静止していると考えざるを得ない結果となり、大きな疑問となったのでした。後に、アインシュタインによってエーテルは存在しないことが明確になります。

 

1892年には陰極線の実態を説明する実験を開始しました。彼の学生のフィリップ・レナード(Philipp Lenard)は早くからこの光線効果(真空容器内の陰極から出て薄いアルミ箔を通過することが出来、ガラスを緑色に輝かせる)を研究していました。いろいろな種類の陰極管を作り、X線によるいろいろな物質の透過特性を研究していました。しかし、ヘルツはこれには余り関与しませんでしたが、JJトムソンの電子の発見に繋がる研究でした。

 

敗血症のために、1894年1月1日に37才の誕生日を目前にして亡くなってしまったのでした。

1930年IECは彼の業績を顕彰し、SI単位系の周波数の単位を彼の名前にちなんで(Hz:hertz:ヘルツ)と定めました。それまではサイクル/秒(cycles per sec cps)でした。