マイケル・ファラデー (Michael Faraday 1791/922-1867/8/25)
マイケル・ファラデー (Michael Faraday 1791/922-1867/8/25)
イギリスの化学者、物理学者で、ファラデーの法則や電磁誘導を発見した電磁気学の創始者の一人です。静電容量の単位は彼の名前にちなんで(F;farad ファラッド)を使用しています。また、ブンゼンバーナーの発明者としても知られています。
ファラデーは鍛冶屋の3男としてロンドン近郊に生まれました。一家は全部で10人もの子供をかかえ、非常に貧しく小学校を卒業すると、13歳で製本工場の見習いとして働き始めます。
製本屋で働きながら本を読み、特に科学系の本に興味をもち、独学で7年間勉強しました。その成果をノートにしていていました。
1813年22歳のとき、そのノートを見みたお客の一人が彼の能力に感動して、科学講演会の入場券を彼に譲ってくれました。その講演会はイギリスの王立協会会長の大化学者ハンフリー・デイヴィ(Humphry Davyアーク灯の公開実験に成功したことでも知られる)の講演でした。
この講演に感銘し科学の道を歩みたいとの希望を持ち、彼のノートをデイヴィに送ったところ、彼の才能を認め、個人的に助手として雇ってくれました。そのときたまたま、デイヴィの助手が病に倒れ欠員ができていたのてすが、その後、正式に王立研究所の助手となり、研究活動が開始されます。
1820年にデンマークのエルステッドが電流と磁気の相互作用を発見したのを聞くと、1821年には電線に電流を流すと電線が固定磁石のまわりを回転する装置(ファラデーのモータ)等を考案しています。
1831年に電磁誘導現象を発見します。
電磁誘導現象は鉄の環の離れた所に電線をコイル状に巻き、1方に電池を接続し、コイルに電流を流すと、他方のコイルに電流が流れることに気づきましたが、電池側に電流を流したり切ったりする瞬間にのみ、他方のコイルに電流が流れることに気づきました。 次に、導線で作ったコイルの中に棒磁石を押しこんだり抜き出したりすることによっても同じ結果を得ました。この現象解釈するのに、電流を流したり切ったりする瞬間の磁力線の変化がコイルを横切り、その時の磁力線の変化に相当した電流が発生すると考えました。これが、磁力線の概念です。
1833年電気分解に関するファラデーの法則を発見します。
電極に析出する物の重量は電解質を流れた電気量に比例し、一定の電気量によって析出する物質の重量はその元素の原子量に比例し、その原子価に反比例します。
この法則の物理定数はファラデー定数と称されています。
ファラデー定数(電気化学定数)は電子1モルの電荷を示す定数です。
今日使用されている「electrolyte電解質」、「electrode電極」、「anode陽極」、「cathode陰極」、「ionイオン」などの電気化学に使用される用語の多くは彼が作ったものです。
その他に、塩素の液化(1823年)、ベンゼン(1825年)、金コロイド(1857年)を発見しています。
さらに、光が磁場によって偏光されることを発見し、従来無関係と考えられていた電磁場と光は密接な関係にあることを実験的に証明もしました。
このように、電気と磁気は別ものと考えられていたのですが、互いに影響を及ぼしあう相互作用があることを明確にし、さらに光と磁気も相互に関係があることを示し、すぐれた直観力を持った偉大な実験科学者でしたが、実験結果を数学的に厳密に記述することにはあまり関心がありませんでした。
後にマクスウェルによって数学的に厳密に記述されると、そのマクスウエルの方程式が電磁波の存在を予測しており、ヘルツによってそれが実験的に証明されると、それをアインシュタインは相対性理論へと発展させる、現代科学への大きな流れを作ったことになります。
彼の業績を称えて静電容量の単位は彼の名前にちなんで(F;farad ファラッド)を使用しています。
彼の師デイヴィは「私の最大の発見はファラデーである」という言葉を残しています。
デイヴィの後に英国王立実験所長に就任、1857年に王立学会会長に推されましたが固辞しています。
また、世界の優秀な科学者たちを集めた金曜講演(1825年より開始)を開催し、少年少女向きのクリスマス講演ではロウソクの化学史などの講演をしました。
クリミア戦争(注)の際に政府から化学兵器の製作を要請されたとき、彼は机をたたいて「作ることは簡単だ。しかし絶対に手を貸さない!」と言いました。
1867年8月25日、自宅で椅子にもたれて眠るように息を引き取りました。
彼の功績を顕彰して静電容量の単位ファラド、ファラデーの法則、ファラデー定数の名称が付いています。
注)クリミア戦争
1853年より始まったロシア-トルコ戦争に翌年よりイギリス・フランスがトルコ側に立って参戦し(1855年からはサルデニャもこれに加担),黒海北岸のクリミア半島を中心に戦われたのがクリミア戦争である。