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ニコラ・テスラの経歴プロフィールを紹介

物理-歴史・伝記

ニコラ・テスラ(Nikola Tesla, 1856年7月10日- 1943年1月7日)

 

交流電流、無線やラジコン、蛍光灯、空中放電実験で有名な発明家テスラコイルなどの多数の発明、The MKS unit of magnetic induction was adopted in honor of Tesla in 1956. 磁束密度の単位テスラにその名を残す。

 

ハンガリー王国(現在のクロアチア西部)リカ=コルバヴァ県ゴスピチ(Gospic)近郊のスミリャン村(Smiljan)でセルビア人ギリシア正教司祭の父母の子として生まれる。姉が2人、兄が1人、妹が1人いました。兄は12歳で死亡しました。

1862年に家族と共にゴスピアに移住しています。

1875年にオーストリア帝国グラーツのポリテクニック・スクールに入学しました。

1881年に数学、機械工学、電気工学の学位を取得し、プラハ大学の大学院に入学して物理学を専攻しました。

1881年にハンガリー王国ブタベスト電信局に就職しました。その年に電話が導入され、電気技師として働きました。

1882年にフランスのパリに移転し、欧州エジソン会社のエンジニアとして就職し、電気機器の改良に仕事に従事しました。その年に回転する磁界で電動機が作ることが出来るというアイデアを思いつき、後に(1888)米国で特許を取得します。最初の多相電動機を作りました。

1884年28歳で米国に移住します。エジソン電灯会社のエジソン機械工場に採用され、エジソン電灯会社の抱えている問題の解決策の検討に従事しました。

当時、直流電流によって、電球と電力を販売する事業を展開していて、顧客の急激な増加に対応するのに会社の負担が増大する問題を抱えて折り、経済的な配電方式の開発が急務でした。そこで、テスラは直流方式から交流電流に転換する事業改革を提案しまし、エジソンはもしそれが出来たら5万ドル(現在価格100万ドル)提供しようといい、彼の提案を受け入れました。役1年間、その具体的な対策を検討し革新的なアイデアを幾つかの特許として申請し改革のめどが立ち、テスラが、エジソンに5万ドルの件を尋ねると、「君は米国のユーモアを理解していない」と答え、エジソンは約束を守りませんでした。即座に辞職してしまいます。

 

1886年にニューヨークで自分の会社(Tesla Electric Light&Manufacturing)を設立します。

1887年にブラシレスの交流誘導電動機を製作します。

1888年5月1日には特許(Electro Magnetic Motor No.381968. 1888/5/1)を取得します。

1888年5月16日にはアメリカ電子工学学会(現IEEE)で公開実験を実施して成功を収めます。

それに感銘を受けた億万長者ウェスティングハウス(George Westinghouse)は多相交流の長距離送電に適していることを聞き、彼と提携し、ウェスティングハウス社(Westinghouse Electric & Manufacturing Company)を設立しピッツバーグに研究所を作ります。

1888年10月に交流電源の特許(Dynamo-Electric Machine No.390414.1888/10/2、No.390721.1888/10/9).を取得します。

 

1887年の4月から、後でX線と呼ばれるもの調査を始めます。彼の特許は電極が1個しかないもので後のX線管とは異なりますが、X線発生の基本原理である制動放射を生じさせるものでした。1888年にテスラコイル(電磁波発生装置)の原理を作り、それで高い電圧の電気を作り、その電圧が電子を加速してガラス管の壁に衝突してX線を発生させるものでしたが、1892年のレントゲンよりも早くにX線を認識していました。

 

1891年7月30日35歳で米国の市民権を取得しました。彼の研究所をニューヨークに設立します。

1891年、100万ボルトまで出力できる高圧変圧器を発明しました。

1892年から1894年AIEE(IEEEの前身)の副会長を務めます。

1893年から1895年には高周波交流について研究し、テスラコイルを使用して100万ボルトの高電圧をつくって、胴体の表皮効果を研究しています。同調回路の発明や電線が無くても光る放電管などを発明しています。無線送信機を発明してセントルイスで無線通信の公開実験を実施しています。

この年にはシカゴでコロンブス博覧会が開催され、そこに最初の電気館が作られ、そこの照明に交流電気が採用され、テスラの蛍光灯やコロンブスの卵が展示されました。

1880年代にはエジソンの直流方式とテスラの交流方式の間で激しい競争(War of Currents)が展開され、1896年11月16日テスラの発明した交流発電機は、ウェスティングハウス・エレクトリック社によりナイアガラの滝の発電所に取り付けられ、事実上の決着がつきましたが過剰な競争に為、1897年にはエジソンとウェスティングハウスは破産状態に陥りました。

1897年にテスラはウェスティングハウス社から離れ、宇宙線の研究を開始します。

41歳で無線に関する基礎的な特許(System of Transmission of Electrical Energy 645576 Mar. 20, 1900取得)を申請し、1年後にはそれを応用した無線制御のボートの公開実験を米国海軍で実施し、無線操縦の魚雷を提案しました。

1898年にはマヂソンスクエアガーデンで開催された展示会で無線ボートの公開実験が披露され注目されました。

1898年に内燃機関に使用する電気式点火装置の特許(ignition timing system 609250)を取得しました。

1899年コロラドスプリングスに研究所を移し、高電圧、高周波数の実験を開始します。

無線電信の信号をピックスピークからパリに送信する実験を開始しました。

アースに関する研究では大地が導体であることから、数100万ボルトの高い電圧を発生させ、30m以上離れたところに放電させ、人工的な雷光を発生させました。無線受信機によって雷からの電波を受信することにも成功しています。

 

1898年に計画を開始してから、J.Pモルガン(J.PMorgan)の協力を得て、1900年15万ドルの資金を集め、1901年にロングアイランド、ショアハムにワーデンクリフ塔(Wardenclyffe Tower )の無線送信用の塔の建設を開始し、1902年6月に研究所をワーデンクリフに移転し、1903年塔自体が完成に近づいたとき、欠陥が見つかり、設計変更に追い込まれました。そのために建設費が超過し、モルガンが資金を提供しましたが他の投資家は応じませんでした。1904年7月追加融資をしないことが決定され、モルガンが他の投資家にこのプロジェクトの推進に協力を要請し、1905年に5月にテスラの特許が終了して、特許権料の収入が減少し、財政的な危機に陥ってしまいました。

これに替わる新たな基金の募集が試みられましたが、資金は集まらず、この塔に設置するために作られた機器は競売にかけられました。

この無線送信塔の高さは57m直径約21mで55トンの鋼材が使用されました。

アメリカ合衆国が第一次世界大戦参戦し、標的とされるとして1917年撤去されました。

 

1930年、エジソンとともにノーベル賞候補となるもこれを拒否。このためエジソンもノーベル賞を受けられなかった。

 

1943年1月7日、86歳でニューヨーク、マンハッタンのニューヨーカー・ホテルで死去。