ルイジ・ガルヴァーニの経歴プロフィールを紹介

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ルイジ・ガルヴァーニ(Luigi Galvani 1737/9/9-1798/11/4)

 

 

イタリアの医学者、物理学者、カエルの脚の実験として有名なガルヴァーニ電池を発見しました。ガルヴァーニの名前はガルバノメーター(検流計)、ガルバニック腐食などにも残されている。

 

 ガルヴァーニは修道士になって神学を勉強したいという夢を持っていましたが、家族の反対で医学の研究者になりたいと考えるようになり、ボローニア大学で医学を学び、1759年卒業の後は外科医として活動しながら、解剖学の研究をしていました。

1762年には薬学の博士を取得、この年に結婚します。その後、ボローニア大学の講師、解剖学講座の助教授を経て、1766年にはボローニア解剖学博物館の学芸員となり、1772年には所長になります。

 初期の研究は解剖学でしたが、筋肉や神経の研究へと移って行き、筋肉の刺激反応等を、蛙を使って研究していて、動物電気(animal electricity)の研究に発展していきます。

1773年に蛙の解剖学(後に電気生理学(electrophysiology))に関する講義をしていて、静電気発生器(摩擦による電気を火花が発生できる大きさまで蓄積する)とライデン瓶(Leyden jar)を使用して、筋肉を刺激する実験を始めました。

1780年代の初めには動物電気が主な研究対象で、多種多様な観測と実験がなされたことがノートに記録されていました。

1786年には雷雨の中で蛙の筋肉の神経に鋏を触れると筋肉が収縮することを発見しています。また、蛙の脚の皮を剥がしているときに、メスが腰の神経に触れると筋肉の痙攣が発生しました。その時には静電気発生装置が火花放電していました。

静電気の影響を受けないようにするために、銅のフックを蛙の脊髄に挿入して、鉄のレールにフックを掛けて、観察を続けたところ、雷が発生したり、静電気発生器で火花放電させたりすると、痙攣が発生し、また、筋肉と神経間を金属で接触すると同じように痙攣が発生しました。

 

 1780年末から、脊髄と脚の神経を露出させた蛙の下股を用い、ガラス板を金属箔ではさんだ板の上にそれをのせ、静電気発生装置で作った静電気を通じた導線で、脊髄や神経を刺激する実験を行いました。蛙の脚は激しく痙攣し、この筋肉の力は電気の強さに比例し、導線に接触している点からの神経の長さに反比例すると推測しました。

ところが、実験を繰り返す内に、導線が接触していないにもかかわらず、その金属箔の上に脚の神経があると、起電機が放電した時に痙攣することに気付いたしたのです。

彼はこれを空中電気によるものと考え、雷でも同様の結果が起こると予測し、脊髄に真鍮のフックを付け、庭に張った鉄線に引っ掛けて吊るしところ、稲妻が、光った時、蛙の脚は痙攣したのですが、奇妙なことに、晴れて雷が無い時でも、脚を吊るすとやはり痙攣が生じたのです。

そこで、彼はこの現象は空中電気ではなく、むしろ真鍮と鉄という二種の金属にあると正しく洞察しました。

1791年に脊髄と脚の神経を露出させた蛙を金属板の上にのせ、脊髄や神経を鉄や銅で刺激すると蛙の脚は生きているときのように激しく痙攣しました。様々な組合せでこれを実験し、金属の種類によって、痙攣の強さが異なることを確認したのでした。

1791年にこの現象を動物電気の確かな証拠を得たと考え、「筋肉運動による電気の力(1791)」にまとめ出版したのです。

当時、動物電気は広く流布していて、動物の生きた神経は電気を発生させると信じられていました。動物組織の生命力は動物電気が筋肉と神経に作用することによって引き起こされると信じられていました。そして、従来の電気「自然型」の電気(=雷、電気うなぎ等)とは異なる「新しい型」の電気であると考えました。とくに、脳は電気流体(elctric fluid)を分泌する重要な機関であり、神経はそれを筋肉などに伝え、筋肉繊維を収縮させることで組織が活動できると考えました。

医学関係の彼の仲間たちはおおむね受け入れましたが、1800年に彼の論文を読んだイタリアのパヴィア大学の物理学教授のボルタ(Alessandro Volta)は疑問を持ちます。ボルタは真の電気の源は異種金属で、異種金属が筋肉と神経に接触しているときの痙攣の大きさは金属の種類によって異なることから、筋肉と神経は電気を検出する検電器の役割をしていると主張しました。

この論争はボルタの勝利に終わります。それは湿った環境中における異種の金属の接触によって発生ずる連続電流の発生がもたらす現象でした。現在では、彼の名を取って「ガルヴァニズム(galvanism)」と呼ばれる現象を発見したのですが、誤った解釈をしてしまったのです。ボルタはそれに基づいて最初の電池を発明し、安定な電源を入手できるようになります。それは電気の急速な発展の幕開けになったのです。

特に電気分解を使用した電気化学の分野では新しい元素の発見が続出することになります。

1790年6月30日彼の妻が死亡しました。子供はいませんでした。

1790年代半ば、彼はナポレオンのイタリア支配に対し忠誠を誓うことを拒否したため、大学を追われ収入が無い状態になります。また、実験の解釈についてボルタとの論争に敗北し学者としての評判を落としていました。

生まれ故郷に帰り、兄弟と生活していましたが、後に、政治情勢の変化によって追放が解除され、大学に復職するように要請されましたが、それを断ります。

彼の友人達は彼の科学者としての名声にちなんで名誉教授の地位を与える制度を作ったのですが、不幸にも実施される前に亡くなってしまいました。