ゲオルグ・ジーモン・オーム(Georg Simon Ohm 1789/3/16-1854/7/6)
父親はプロテスタントで優れた錠前職人で、しかも、独学で高い水準の知識を持っていて、自ら息子に数学、物理、化学、哲学等を教え、その知識は高い水準になりました。
11歳で学校に通いましたが学校のレベルが低く得るものは少ししかありませんでした。
1805年にエアランゲン大学に入学してからダンスやアイススケートに熱中し、父は勉強のチャンスを無駄にしていると怒り、3学期の終了後も大学に残って勉強するようにさせました。1806年の9月にスイスの学校の数学教師として赴任します。
1809年ハイデルベルグ大学で家庭教師をしながら数学の研究を再開し、2年後の1811年4月にエアランゲン大学に復帰して、10月に博士号を取得し、卒業後、そこで一年半程講師をした後、バヴァリア政府の要請で数学と物理学の学校教師をしました。
1813年1月に少し待遇の良い学校に移りました。
1817年11月にケルン理工科学校の上級講師となり、物理学を教えると同時に、そこのよく整った物理実験室を用いて、本格的に物理の実験研究を始めました。また、フランスの数学者ラグランジュ、ルジャンドル、ラプラス、ビオット、ポイズン等を読みました。
1820年のエルステッドの電磁気現象の発見(エルステッドの実験)に関心を持ち、電磁気学の実験を始めたのです。ガルヴァーニ電池を使用して電流と電圧の関係を数学的に取扱う研究に着手しました。1825年に高水準の研究には大学のポストが必要であると考え、そのためには研究内容の発表が必要であると考え、実験研究の結果を系統的に整理しました。
それは今日「ホームの法則」と呼んでいるものでした。最初の論文を発表し、そのなかにふくまれていました。それは実験結果を基にした数学的な推論でした。
1926年に2つの論文を発表しています。フーリエの熱伝導の関する研究をモデルにして電気伝導を実験データに基づいて数学的に表現したものと、直流電気のその他の働きを説明する法則を提案しました。
電気の特性を熱伝導になぞらえ、温度の違いによって熱の伝導が起きることを、電圧の違いによって電流が流れることにして、長さや太さの違う針金の中を熱が伝わるのを電流が伝わって行くことに例えています。
電流をアンペールの測定法を用いて正確に測定し、電流の強さは針金の断面積に比例し、針金の長さに反比例する(オームの法則)ことを確かめました。 さらにその針金の抵抗は”R=E÷I”で示せることを確認したのです。 ここで”E”は起電力、”I”は電流の強さ、”R”は抵抗の大きさです。
1827年にこれまでの研究成果を「数学的に取扱ったガルヴァーニ電池(Die galvanische Kette mathematisch bearbeitet)」として出版しました。
このために一年間の有給(半額)研究休暇を取得して、ベルリンへ行きこの研究成果をまとめ出版にこぎつけたものの、当時の学者に認められず、大学に就職することもできませんでした。
実験結果に裏付けられた研究成果を発表しながらも、何故かそれらの成果は認められず、無視され続けたのです。
1841年にイギリスの王位協会からコプリー・メダル(Copley Medal)を受けられました。
1842年に王位協会会員に選ばれました。
1849年ミュンヒェン大学の招請教授に任命されました。
現在「オームの法則」として知られるこの法則の発見によって、数学的解析法が電気現象に適用できるようになったのです。
彼のこの業績ならびに他の業績を讃えて国際電気会議は1881年電気抵抗の標準単位を「Ωオーム(Ohm)」と称することを決めたのでした。