ある日突然、グリセリンが結晶化するようになった。そんな話しをご存知だろうか。100匹目のサルと並び―いや100匹目のサルのインチキが完全に暴露されてからは特に―取り上げられる頻度があがった第一級の人気を誇る与太話である 。
連中がまことしやかに語るところによれば、それまでは世界中の化学者がどんなに努力しても、全く結晶化しなかったグリセリンが、ある日を境に世界中で結晶化するようになったというのだ。まるで唐突に物理法則が変わったかのようにである。
これほど大きい話にもかかわらず、何の確認もとらずに「超自然現象の証拠だ!」と軽信してしまう人々がいて、まことに情けない。
さてて、軽信する連中はさておき、最大の関心事であるこの話の真偽はどうなのだろう?どの程度信頼できる話なのであろうか?
実際のところ、ビリーバー連中の逸話的な宣伝以外ではあまり語られていないのである。その語られ方や内容は間違いなく与太な匂いをプンプンさせているのだから、到底根拠なしで受け入れるわけにはいかない。しかし、もしこれが本当の現象であったのならば科学革命級の事例であろう。.だからこそ、直感的にでも真実だと思う、真実だと思いたいのならば、ぜひ追求し確認する必要がある。
本来は、この逸話を信じたい側の者こそが、信じるために懐疑的な調査を行うべきである。そうでないならばいつでも真相を受け入れる用意をして、懐疑的な状態で保留しておくべき類のものであろう。しかし、全く以って不毛としか言いようがないのだが、この逸話は未だにただの逸話のままで流布し続けてきては拡散しているのだ。情けない。
そんなわけで、非常に理不尽な事態であるが、このネタの真偽あるいは信頼度も、他の与太話と同様に懐疑論者の手によって追求され解明された。その調査は納得のいくものであり、その結論はかなり強力である。
この調査を行い真相を突き止めたのは、当ペ-ジでもLINKさせていただいている菊池誠先生である。ご本人の了解をいただき、ここでも紹介させていただく運びとなった。まだ広くは公開されていない話題なので情報価値も高いだろう。
この逸話をまことしやかに語る連中には「100匹目のサルとかフィラデルフィア実験と全く同じだったYO!」ということを、お知らせしてあげてみてはいかがだろう。
ではいよいよ本題である。
まず、菊池先生はどのようにして解明に至ったのだろうか?グリセリン結晶化の話は、疑似科学史に残る重要な話題の一つであるから、その解明の道筋を残しておくことも意義があるだろう。というわけで、菊池先生に直接お伺いした次第である。
きっかけは『Popular Science日本版』の渋谷研究所Xというコラム。お恥ずかしいことに私は読んでいなかったのだが、疑似科学的なネタを取り上げるお笑い記事という主旨らしく、菊池先生も記事の作成に協力しているのだった。そして、次はグリセリンの結晶化の話を取り上げようということになったわけである。その記事を作るための議論の過程で、まずこの話の起源が、どうも『生命潮流』までしか遡れないという話が出たそうである。菊池先生は、100匹目のサルの例もあるので『生命潮流』の巻末に挙げてある参考文献にあたることから始めたわけである。これが初出なのかは確実ではないが『生命潮流』は巻末に参考文献が出ていて、この手の本ではかなり良心的だ。そのようなわけで、菊池先生は、とりあえず一次文献にあたるというオーソドックスな方法をとってみたのだ。そしたらなんと!一撃でゴールだったというわけ。素晴らしくて涙が出そうだ。というのも、グリセリンの話もまた、100匹目のサルと全く同じだったからである。燈台元暗しとはまさにこのこと。
いかなる事態だったのかは、私がピーチク解説するよりも菊池誠先生のブログの文章を引用・転載させていただこう。大変に強力な結論といえるだろう。
(グリセリンはあらゆる努力にも拘わらず結晶化させることができなかったが、あるとき運搬中のグリセリンが何かの拍子に結晶化した、という話に続いて) (グリセリンはあらゆる努力にも拘わらず結晶化させることができなかったが、あるとき運搬中のグリセリンが何かの拍子に結晶化した、という話に続いて)
化学者たちは大喜び。その樽のグリセリンを少しずつ頂戴しては自前の試料作りにかかったが、それらは摂氏18度で同じように固体になった。いち早くこれを試した科学者のなかでもふたりの人物が熱力学に関心を抱いていて、以下のことを発見するに至った。ふたりが最初の結晶を郵便で受け取り、あるひとつのグリセリン試料を使った実験で結晶化に成功すると間もなく、実験室にあった他のすべてのグリセリンが自然発生的に結晶化し始めたのである。なかには密閉容器に入っていたものすらあったという。・・・ …上の文章で言及されている「ふたりの人物」というのはカリフォルニア大学のGibsonとGiauqueで、引用されている論文がJ. Am. Chem. Soc. 45 (1923) pp. 93である。ここまでわかれば、話は簡単。原論文を読むだけだ。こちらも該当部分を引用すると ….(どうやってもグリセリンは結晶化できなかった、という記述に続いて)After the seed crystals had arrived it was found that crystallization practically always occurred when amounts of 100 g. of any laboratory sample were slowly warmed over a period of a day, after cooling to liquid-air temperatures. This occurred even when great precautions were taken to exclude the presence of seeds. However, it was found readily possible, by temperature manipulation alone, to produce crystalline or supercooled glycerol at will. The calorimeter was never opened, or altered in any way during the entire investigation….. 実は原論文には超自然的な現象を思わせる記述は一切ない。上の引用部の最初に書かれているのは「種結晶が到着してからわかったことなのだが、実はグリセリンを液体空気温度まで冷やしてから一日以上かけてゆっくりと温度を上げてやれば、事実上いつでも(種結晶なしで)結晶化できるのである」ということ。つまり、グリセリンを結晶化するには温度コントロールの仕方にコツがあり、GibsonとGiauqueはそのコツを発見したと言っているのである。ただ、コツを発見する前に種結晶を注文していたので、種結晶の入手のほうが時間的には先になったというだけの話だ。「自然発生的に結晶化」などという話はどこにも書かれていない。むしろ、きちんと温度制御しないと結晶化しないのである。
“After the seed crystals had arrived it was found”の過去完了は「届いちゃったあとで、コツがわかったのよ」という一種の”なんだかくやしい感じ”を表現しているのだが、ここをワトスンが誤読したとは考えにくいので、むしろ話を面白くするために意図的に歪曲したのだろう。実際ワトスンは「百匹目の猿」のエピソードについても、”詳細を即興で創作する”と明言しているのである。[菊池誠著 「グリセリンの結晶」2005/5/21,blogより]
以上
どうだろうか。これ以上ないほど明快であろう。ワトソンは例のごとく、ご丁寧に参考文献を挙げているので、このようなことが判った。その姿勢だけは評価してよいだろう。
こういったことを調べずに軽信してしまう方も問題があるのだから。つまりビリーバーの皆さんは一次文献に当たっていないことが明白なのである。もし、ワトソンの語りが真実であるならば、このような懐疑的な調査によって補強されることになるはずだったのだが、今回もまたゴミクズだったのである。