1.船の位置を知る
「タイムボール(timeball)」は日本語では「報時球」と訳され、19世紀から20世紀初頭にかけて世界の港湾で、船舶に正確な時刻を知らせる目的で設置されていたものであるが、現存する物はほとんどなく世界でも数カ所といわれている。どのようなものか調査をおこなった。
タイムボールに興味を持ったきっかけは 1910年ハレー彗星騒動記について調べていたときである。1923年長崎鍋冠山にタイムボールができたとき東京天文台から田代庄三郎(ハレー彗星を麻布の東京天文台で観測した人物)が赴任したという記事を発見した。タイムボールというSFかゲームを連想させる単語にそれがいったいどのようなものか、現物は存在しないのかといった興味がわいた。
交通手段と通信機器の発達していない19世紀 世界を旅する手段は船(それも帆船)であった。風任せの帆船で陸地の見えない海上を航行するとき、船の現在位置はどのように測定されたのだろう。船から見えるのは太陽と星で、特に恒星はその相対位置を変えないので、南中高度を測定すれば船の緯度を正確に知る事ができる。ところが経度は正確な時計がないと測定できない。船が出発した港で時計を正確に合わせておき、海上で恒星の南中時刻を測れば予想される南中時刻との差から船と港の時差すなわち経度の差がわかる。これによって船の現在位置と進路を知ることができる。
例えば、1月1日の正午 神戸港(東経135°)で時計を合わせた後出港した船が、1週間後の1月8日の夜 海上でおうし座1等星アルデバラン(赤経α=4h37m 赤緯δ=+16.5°)の南中時刻とその時の高度を船の時計と六分儀で測ったところ、午後7時23分で高度75°であった。
もし船が神戸港を出航せず、神戸でアルデバランの南中時刻を測ったとしたら午後9時23分に南中するはずなので(アルデバランの赤経αと神戸港の東経がわかっていれば計算できる)船の方が2時間分東へ進んだことになる(東へ行くほど早い時間に南中する)から、船の現在位置は東経λ=165° 北緯ψ=31.5°ということになる。
2.午砲と報時球
1714年、世界中に植民地を持っていたイギリス王ジョージ3世は、海難事故に備えて船に搭載できる正確な時計を発明した者に懸賞金を出すと公約した。1761年ジョン・ハリソンの発明したマリンクロノメーターはイギリスからジャマイカまでの81日間の航行でわずか5.1秒遅れただけという当時としては画期的な時計で彼は見事に賞金を手に入れた。それでもすべての船舶がそのような正確な時計をもっているとは限らず、また正確な時計でも統計的な進み遅れがあるので、時々正確な時間に修正してやる必要があった。
そこで船舶に正確な時刻を知らせるための方法として考えられたのが タイムガン(timegun)とタイムボール(timeball)である。タイムガンとはいわゆる午砲(ごほう=ドン)のことで、正午に大砲を撃ち大きな音をさせ、音を聴いた瞬間時計の針を合わせるという方法である。18世紀終わり頃から始まった時報で、大きな街ではで昼に午砲が鳴り響いた。
日本では明治4年(1871年)に東京・皇居内に設置され昭和4年(1929年)までドンの愛称で親しまれた。また大阪では明治3年(1870年)から天保山で始まり翌年から大阪城内に移設された。現在でも大阪城内に午砲が残されている。
しかし午砲には欠点があった。海上にいる船に音が届くまでに時間がかかるため、正確な時刻を知ることができないのである。音速は秒速約340mなので、沖合にいる船では10秒以上の誤差を生じてしまうこともある。また大きな音がするため大砲の近所では迷惑がられたりもした。そこで作られたのがタイムボールである。まず1829年にイギリスのポーツマス湾入り口に実験的に建設され、実用化されたのは1833年ロンドンのグリニジ天文台に作られテムズ川を航行する船に時刻を知らせたのが最初だと言われている。
タイムボールは、遠くからでも見えるように丘の上や塔の上に作られ、直径数メートルの中空の金属球を串に通して立てたような構造をしている。この球を機械仕掛けで串の最上部に引き上げ、正午(または午後1時)になると切り離して串の下に落ちるようにしている。(図1) 船の航海士は、正午(または午後1時)の数分前から引き上げられたボールを見てストップウォッチを押し、船のマザークロックの前に行きボールが落ちた瞬間に針を合わせた。
3.現存するタイムボール
世界中で現存するタイムボールで確認したものは2010年10月現在 9機である。
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緯度 Lat. | 経度 Long. | ||
イギリス ロンドン グリニジ天文台 England London Greenwich astronomical observatory |
1833~ | 51°28.6′N | 00°00.1′W |
イギリス ディール港 England PortDeal |
1862~ | 51°13.4′N | 01°24.2′E |
イギリス エジンバラ カールトンヒル Scotland Edinburgh Calton Hill |
1852~ | 55°57.3′N | 03°11.0′W |
ニュージーランド リトルトン港 NewZealand Lyttelton |
1876~1934 | 43°36.4′S | 172°43.6′E |
オーストラリア メルボルン ウィリアムズタウン灯台 Australia Melbourne Williamstown |
1853~1926 | 37°52.1′S | 144°54.8′E |
オーストラリア アデレード港 Australia Adelaide Port Adelaide |
1875~1932 | 34°50.3′S | 138°28.8′E |
オーストラリア シドニー天文台 Australia Sydney Observatory |
1857~ | 33°51.6′S | 151°12.2′E |
オーストラリア ニューカッスル カスタムハウス Australia Newcastle Custumhouse |
1877~1941 | 32°55.6′S | 151°47.1′E |
ポーランド グダニスク灯台 Poland Gdansk Lighthouse |
1894~ | 54°24.4′N | 18°39.7′E |
これ以外には南アフリカケープタウンの博物館には取り外されたタイムボールが展示してある。
グリニジ天文台、ディール港、リトルトン港の3ヶ所は比較的大きな建物の屋上にあるため、建物全体が博物館のようになっている。ウィリアムスタウン灯台のものは波打ち際の駐車場のまんなかに潮風をうけてポツンと立っていて、アデレードのものはモニュメントとして残されています。
イギリスにはイングランドに2機、スコットランドに1機のタイムボールが現存する。ヨーロッパでは他にポーランドに1機が存在する。また南半球にはニュージーランドに1機、オーストラリアに4機のタイムボールが残されている。
(a)グリニジ天文台 Greenwich astronomical observatory
1999年8月 フランス皆既日食を観望に行き、その後ロンドンのグリニジ天文台(現在は天文台としての機能は無く博物館として使用されている)へ立ちよった。
下の記念写真で、現在は使われなくなっている旧館(フラムスチード館)の屋根の上に赤い球が乗っている。これがタイムボールで、写真右に写っている時計のところに経度ゼロのラインが引かれている。
解説には午後1時に落下して現在でも時報の役割をしていると書かれてある、午後1時の理由は台員が正午に時刻修正の仕事に忙殺されるためである。
グリニジ天文台は西暦2000年のミレニアムセレモニーの後 天文台としての機能を完全に停止し、現在は博物館としてのみ活用されていて19世紀世界の覇権を握った大英帝国の威光を偲ばせる。
(b)ディール港 Deal Timeball Tower
ロンドンから東へ100kmほど離れたドーバー海峡に面したディール港(Deal)にはタイムボールステーションがある。
ディール港ではTimeB@LLというWEBサイトを運営しており、タイムボールが町の観光名所になっている。4階建ての建物の屋上にタイムボールが設置されている。
ここでも落下時刻は午後1時とされている。
(c)エジンバラ カールトンヒル Scotland Edinburgh Calton Hill
スコットランドの古都エジンバラにあるカールトンヒルは小高い丘の上にさまざまな記念碑が建っている。そのなかのネルソン・モニュメント(Nelson Monument)とよばれる塔の上に白色のタイムボールが存在する。
2002年に建設150周年を記念して、故障していたものを修理し動作するようにしたものが2009年現在も稼働している。
午後1時にボールが落ちるとともに、午砲が打たれ市民に大きな音を響かせている。
写真はEdinPhoto というエジンバラの古くからの写真を展示しているサイトのものを掲載している。南側の道路から見たところでタイムボールが上がっている。
(d)リトルトン港 Lyttelton Timeball Station
ニュージーランド南島にあるクライストチャーチ市(Cristchurch)の外港にあたるリトルトン港 (Lyttelton)にあるタイムボールステーションである。
リトルトンはクライストチャーチ市の外港(大都市の近くにあってその都市の必要物資の積み降ろしをする港)である。
小高い丘の中腹にあり、100メートルほど階段を登るとタイムボールステーションがある。
2006年3月 実際に行ってみると、残念ながら補修工事中で建物内部を見ることはできなかった。
(e)ウィリアムズタウン灯台 Williamstown Lighthouse Timeball Tower
オーストラリアには3機のタイムボールが確認されている。そのうちの1機がメルボルン市郊外のウィリアムズタウン灯台にある。波打ち際の駐車場のまんなかに潮風をうけてポツンと立っている。
灯台自体は現在も機能しているがタイムボールタワーは1987年以降は動かなくなっている。
今後タイムボールは周辺の開発によって取り壊される可能性がある。
メルボルンには現在は失われているが2機目のタイムボールが存在し、ウィリアムズタウンの北北東に位置するフラグスタッフ(FlagStaff 現在はフラグスタッフ公園)という場所に設置されていた。港からは2個のタイムボールが同時に落下する光景が見られた時代があった。
(f)アデレード港 Adelaide Semaphore Timeball Tower
オーストラリアの2機目のタイムボールはアデレード市にあるセマフォータイムボールタワー(Semaphore Timeball Tower)である。
1875年に建造され1932年まで実際に使われており、アデレード天文台から電気信号により動作していた。
アデレード市街から電車でアデレード港(PortAdelade)までは約20分 そこから徒歩でセマフォーまで行き、大通りを海岸に向かって歩くとタイムボールタワーがある。さらに長い突堤(Semaphore Jetty)が遠浅の海に向かって突き出ている。
ここのタイムボールは球ではなく6枚の羽を付けているのが特徴で風を通しやすくして風圧を避けている。現在も12時57分から1時までの3分間上がっている。
(g)シドニー天文台 Sydney Observatory
3機目はシドニー天文台に存在する。ロックスとよばれる衣料品や小物屋が並んだところ商店街から徒歩5分程度で到着する。
天文台の建設は1857年で2007年には天文台開設150周年祭がおこなわれた。1982年からは天文台としては使用されず、博物館として機能している。タイムボールがいつ設置されたのかは不明だが、現在も黄色いタイムボールが午後1時に落下している。
(h)ニューカッスル カスタムハウス Newcastle Customhouse
4機目のタイムボール、シドニーの北にあるニューカッスルに存在する。
写真左側の塔はニューカッスルの海辺に建つ旧カスタムハウスで税関の建物である。イギリスの総督などの重要人物の公館にも使用する目的で1876年に建設された。
タイムボールは1877年に設置され、1929年に故障するまで動作していた。故障を修理して1941年まで動いていたという記録もあるがさだかではない。
日本でも神戸、門司のタイムボールは高台に建設された後 税関かそれに隣接する警察署の屋上に移転している。また大阪のタイムボールは最初から警察の屋上に建設されたが税関に隣接している。船員が通関のため必ず通る建物なので、初めての港でも見やすくわかりやすいという意味である。 1988年にエリザベス女王がニューカッスルを訪問するときに修理されたが、その後の1989年の地震により再び故障し現在は動作していない。写真の塔の上にある球体がタイムボールである。
(i)グダニスク ライトハウス Gdansk Lighthouse
ポーランドのグダニスク港には1894年に設置されたタイムボールが存在する。一時期は取り外されていたが、2010年現在 再び設置されている。建設当時からワイヤーを編んだような形で向こう側が見える構造になっている。
グダニスク港といえば1980年代にポーランドの民主化運動の先駆となったワレサ氏率いる「連帯」が有名だが、現在は観光都市として注目を集めている。タイムボールも観光目的のために設置されたようである。
(j)シンガポール Singapore
シンガポールには復元されたタイムボールが存在するという噂を聞き、現地で2回調査(2008年と2010年)したが確認はできなかった。
可能性のあるのはシンガポール港の19世紀の中核である現在のマーライオン公園(Merloin Park)周辺、セントーサ島の対岸にあるマウントフェイバー(Mount Faber Park)や東側のタナ・メラ港(Tanah Merah Feryterminal)などであるが現地観光ガイドに尋ねても存在を知る者はいなかった。現時点では「無い」と結論づける。
(k)コネチカット マイスティック 海事歴史協会 Connecticut Mystic
現在調査中である。
4.ミレニアムセレモニー
GPSを運用するワシントンにあるアメリカ海軍天文台(U.S. Naval Observatory)で2000年1月1日午前零時にタイムボールを落とす国際セレモニーを行うと発表した。(毎日新聞1999年12月17日)
新ミレニアムを祝うタイムボールの行事に参加するのはニュージーランド、南極、オーストラリア、インド、南アフリカ共和国、スウェーデン、英国、米国の各国・地域で、海軍天文台にタイムボールが復活したと伝えている。各地のタイムボール落下は衛星を使う全地球測位システム(GPS)で制御され、誤差は1億分の1秒以下しか生じない。ミレニアムタイムボール製作の様子は下の関連サイトUSNOから見ることができる。
2001年 イギリスのエジンバラ(Edingburgh)でタイムボールとタイムガンの歴史に関する展覧会がおこなわれ、実際にデモンストレーションがおこなわれた。
5.世界のタイムボール
日本天文学会発行の天文月報第1巻12号に世界のタイムボール設置数が掲載されている。これによると1904年に世界のタイムボールは139カ所に設置されており、形状も各種あり球形が最も多いが、国際的な規格がなかったため、アデレードのタイムボールのように展開板を使ったもの、円筒形のものなどが存在した。落下時刻も、正午に落ちるもの、午後1時に落ちるものなどまちまちであったとされている。
6.日本のタイムボール
世界各地の港で作られ、日本でも明治末期から大正にかけて横浜、神戸、門司、長崎、大阪に設置された。
日本のタイムボールは1903年 横浜港と神戸港に設置された物が最初である。当時の日本ではタイムボールは欧米に遅れていた日本の科学技術を少しでも向上させるための試金石として使われた。正確な時刻を知るための天文学と測地学、タイムボールを製作するための工業技術、それを休み無く稼働させるための電信技術と運営能力を試されたのである。最初の数年は確実な動作をしなかったことが「航海指針1908年版」に記載されている。
横浜港のものは黒、神戸港のものは赤い中空の球体であったことが記録されている。また長崎港のタイムボールも赤色であった。特に長崎では明治45年(1912) 2月鍋冠山中腹にタイムボールが完成、報時業務を開始した。このタイムボールは直径2.1m、赤色に塗装されポールは白色、高さ27m。赤い玉は正午5分前にポールの上部に引き上げ、電気信号により正午ちょうどに6m落下させた。長崎のタイムボールが横浜、神戸、門司と大きく違ったのは、独自に報時観測所をもっていたため、日曜、祭日も休むことなく報時をすることができたということである。
1930年代になって電波による時報が発達したためタイムボールの必要性はなくなってしまい、取り壊され日本では現存するものはない。「タイムボール」「報時球」という言葉自体が忘れ去られている。
呉港、佐世保港に関しては軍港であり、機密保持のために記録が残されていない。当時は軍事基地の見えるところでは列車の窓に暗幕を閉めるなど情報統制がおこなわれていて、写真などの資料が発見されていない。旧日本軍関連の資料は戦災などで逸失し防衛庁にも確実な資料は存在しないと考えられる。
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横浜港 | フランス波止場西隣(現在山下公園「かもめの水兵さん」歌碑前 | 1903~1923 |
神戸港 | 花隈公園→神戸水上警察署屋上 | 1903~1935 |
門司港 | 旧門司市役所西隣→門司税関屋上 | 1912~? |
長崎港 | グラバー邸南南東の鍋冠山山腹 | 1912~1943 |
大阪港 | 大阪水上警察署屋上(中央突堤前) | 1913~? |
呉港 | 鎮守府西隣 城山?(調査終了 軍港のため未確認) | ? |
佐世保港 | 鎮守府屋上?(調査終了 軍港のため未確認) | ? |
7.タイムボールの終焉
1923年9月1日午前11時58分 横浜港のフランス波止場では12時の落下に備えて11時55分からタイムボールが引き上げられていた。そのとき大きな地面の揺れが起きてタイムボールタワーは倒壊してしまった。関東地震、のちに関東大震災とよばれる地震災害である。このときの瓦礫によってフランス波止場は埋め立てられ山下公園となり、以後タイムボールは廃止された。
必要な物であれば再建されたのだが、ラジオ電波による時報が普及しつつあり、タイムボールの必要性が薄れてきている時代であった。日本だけでなく世界中で同じような状況であり、以後故障したタイムボールには放置されたり撤去される運命がまっていた。
19世紀前半から20世紀初頭にかけてのわずか100年弱の期間だけ活躍した装置である。しかしタイムボールが果たした歴史的な役割は航海の安全に寄与するだけでなく、正確な時刻を保守管理運営するノウハウをもたらしたものとして現代にも引き継がれている。GPS衛星によって現在位置を知る技術とも無縁ではない。誰かが正確な時間管理をしているおかげで、便利さを便利と感じない世界が維持されている。
参考文献
タイム・ボール:弓倉恒男:神戸海洋博物館紀要:1993
改訂増補 航海指針:海員協会蔵版:1908
神奈川県港務部要覧:神奈川県:1910
丙種運転士運用術独学:福井清司:春芳堂:1909
100年前の横浜・神奈川 絵葉書でみる風景:横浜開港資料館:有隣堂:1999
横浜大桟橋物語:客船とみなと遺産の会:JTBパブリッシング:2004
ふるさとの想い出写真集 門司:今村元市:国書刊行会:1979
九州景勝鳥瞰図《長崎県:長崎市》:吉田初三郎:1933
写真集おおさか100年:サンケイ新聞社:1987
毎日新聞マイクロフィルム 1913年版
新版呉軍港案内:呉郷土史研究会:1934復刻版2000
旧神戸外国人居留地 Old Foreign Settlement of KOBE 復元模型 神戸市立博物館所蔵
SEA CLOCKS THE STORY OF LONGITUDE (邦題:海時計職人ジョン・ハリソン):Louise Borden:2004
観測機器が伝える歴史 クロノメーターと報時球:朝尾紀幸 水路 151 2009.10 p.22~23
関連サイト
グリニジ天文台
リトルトン
ディール港
ウィリアムズタウン灯台
アメリカ海軍天文台
シドニー天文台
グダニスク港ライトハウス