私は数値計算や統計計算を行う仕事柄,いまでも頻繁に積分を使っているが,私が使う積分はリーマン積分に限られている.というより,リーマン積分以前の公式集に載っているものと数値積分(台形則・シンプソン則など)といった方が正確かもしれないが,ともあれ,なるべく多くの関数が積分可能なことが望ましいし,今回の閑話休題の大原則もその点にある.
積分の歴史を振り返ると,ニュートン,ライプニッツによる搖籃期を経た後,リーマンによって積分概念の厳密化がなされた.大学初年級で学ぶ積分がいわゆるリーマン積分であり,その拡張としてルベーグ積分がある.ルベーグ積分はフーリエ解析,関数解析学,確率論などで必要とされ,リーマン積分の答えの是非は理論的にはルベーグ積分に立脚している.
それでは,ルベーグ積分とはどんなものか?なぜ必要なのか?リーマン積分では不十分なのか?その背景を探ってみよう.
ルベーグ積分の氏素性について書かれた紹介文を読むと,『近世になって,連続でない関数の積分が必要になってきた.リーマン積分は関数の定義域(x)を細分するが,ルベーグは関数の値域(y)を細分することによって,連続でない関数の積分を定義することに成功した.理論的に積分法を構成するときには,ルベーグ積分が有効である.』とある.そこで,書物を購読することになるのだが,実に筋が通っているし,理路整然とできあがっていてスキがない.それでいて,なぜかわかった気がしないのは私だけではないだろう.
(1)ルベーグはその上では関数値の変動が少ないというような集合を考えることにしたわけだが,リーマン積分が関数の定義域を細分するのに対して,関数の値域を細分するという違いが,どうしてそれほど決定的な差を生むのだろうか?
(2)ルベーグ積分は,「可測」な関数を対象としているのであるが,測度の説明が天下り的で今一つピンとこない.
(3)一方,「可測でない関数は存在するか」という命題は,連続体仮説と連動する.この命題が正しいかどうかは,集合論の「選択公理」を肯定するかどうかという問題と同等である.よって,有限の命持った人間が証明できないのでは?
等々,数多くの疑問が残り,私にとってかなりの難物である(これらの点については,数学科の学生でも理解できない者が多いようである).ルベーグのフィロソフィーの一端は理解できるにしても,結局のところ,一読したくらいでは何が何やらさっぱりわからないのである.
【1】ルベーグ測度の優位性
1902年,フランスの数学者ルベーグは学位論文「積分・長さ・面積」を発表した.この中で論じられていることは,19世紀までに確立されたリーマン積分とジョルダン測度の改良であり,ルベーグ測度とルベーグ積分を提唱したことになる.驚くべきことに,この20代の若者の書いた一篇の論文が20世紀の解析学を支える基盤となった.
ジョルダン測度の考え方の基本は,無限を有限で近似していくものであり,これはアルキメデスが円をはじめさまざまな図形の面積を求めた取り尽くし法の発想と同じものであった.一方,ルベーグ測度の定義が最初から無限を取り込んでいるという点でジョルダン測度とは一線を画している.
比喩的にいえば,ジョルダン測度は砂粒を図形に充填することによって面積を測るものであるが,ルベーグ測度は流体のような連続体を使って測るというものである.ジョルダンの測定器よりも性能の良い測定器を作ったわけであるから,それによって測定誤差ははるかに小さくなるが,この違いから新たに手に入れられたものはこればかりではない.
ジョルダン測度では,無限集合で測度0のものは存在しないことになるが,これは(特に確率論では)非常にまずい.ルベーグ積分では,測度が0となる集合も扱うことができるので,結果として積分できる関数の量を増やすことができるのである.
(例)ディリクレ関数
χ(x)=1(xが有理数のとき)
0(xが無理数のとき)
は,1種の病的関数であり,いかなる閉区間においてもリーマン積分は存在しない.しかし,可算集合の測度であるから,ルベーグ積分は0となる.
この例は,ルベーグ積分の優位性を示す有名な例である.関数fを区間I={a,b]で定義された関数とする.このとき,A,B⊂Iに対して,
f(A∩B)⊂f(A)∩f(B)
また,A,B⊂f(I)に対して,
f^(-1)(A∩B)=f^(-1)(A)∩f^(-1)(B)
が成り立つ.この式は非常に重要である.すなわち,ルベーグ積分では,関数の値域を細分して積分値を求めるのだが,各分解における積分値が決まれば全体の積分値が決まる.一方,リーマン積分ではその保証がないので,積分可能な関数のクラスが小さくなるのである.
【2】リーマン積分とルベーグ積分の関係
扱える関数の種類を増やすことができるといったが,リーマン積分とルベーグ積分の包含排除の関係をみておきたい.以下の4つの命題のうち,真の命題はどれか.それとも,どれにも例外があるというのだろうか?
[1]リーマン積分可→ルベーグ積分可
その関数がほとんど至るところで連続であれば,狭義のリーマン積分は存在する.この「ほとんど至るところ」という概念は,確率論や超関数の理論などで重要である.
そして,狭い意味でのリーマン積分なら,この命題はYesである.すなわち,有界な閉区間では,リーマン積分可能な関数はルベーグ積分可能であり,リーマン積分が存在する場合はルベーグ積分とリーマン積分の値は一致する.この意味で,ルベーグ積分はリーマン積分の拡張である.
しかし,広義積分の場合は事情が異なる.広義のリーマン積分を除外したわけは,広義積分に関しては,リーマン積分可能であり,ルベーグ積分不可能な例があるからである.
(例)f(x)=sin(x)/x
のときの広義積分∫(0~∞)f(x)dx
(定義)
ここで,ルベーグ積分可能な関数f(x)とは,関数|f(x)|がルベーグ積分可能なことである.しかるに,
∫(0~∞)|f(x)|dx~1+1/2+1/3+・・・→∞
∫(0~∞)f(x)dx=π/2
このように,リーマン積分可能であり,ルベーグ積分不能な関数は存在する.ただ,その関数の絶対値の積分は,リーマン,ルベーグともに積分不能である.リーマン積分可能だがルベーグ積分は可能でないのは,例外的なケースであって,このような関数はたくさん構成できると思うが,重箱の隅をつつくような例に過ぎない.
[2]ルベーグ積分可→リーマン積分可
ジョルダン可測→ルベーグ可測であることが示されるが,この逆は成り立たない.すなわち,Noである.
[3]リーマン積分不可→ルベーグ積分不可
広義積分(リーマン積分)ができない関数は,教科書にたくさん載っている.
(例)コーシー分布:f(x)=1/π(1+x^2)
ブラウンノイズ関数:f(x)=1/√(2π)x^(-3/2)exp(-1/2x)
の平均値∫(-∞~∞)xf(x)dxはリーマン積分不能.
これらの例では,ルベーグ積分も積分不能であるが,ディリクレ関数のようにルベーグ積分可能な関数もある.したがって,この裏命題はNoである.
[4]ルベーグ積分不可→リーマン積分不可
対偶命題である.したがって,広義積分に関しては,リーマン積分可能・ルベーグ積分不可能な例がある.
【3】ルベーグ積分の重要な定理
リーマン積分とルベーグ積分の違いは,ルベーグ積分では扱える関数の種類を増やすことができるだけでなく,積分論を組み立てていく段階において,さまざまな定理の形で現れるらしい.
ルベーグ積分の定理でよく使われるものを,成書から拾い上げてみると,
(1)項別積分に関するルベーグの優収束定理
(2)積分の順序交換に関するフビニの定理
(3)微積分の基本定理の一般化であるルベーグの微分定理
(4)ラドン・ニコディムの定理
などが列挙される.
若干補足すると,積分は基本的に極限を求める演算であり,他の極限操作(微分,数列,級数)と順序を入れ替えるときは,慎重であらねばならない.その点,ルベーグ積分は積分と極限操作との順序交換の条件が緩やかなので,応用の分野で有効であり,広義積分(有界でない関数の微分,無限の区間積分)を行うときにも,ルベーグ積分の成果は重要であるということになる.
【4】まとまらない要約
以上のように,われわれが行う積分計算(解析的な積分値,数値積分)は,ルベーグ積分の諸定理を利用しながら,リーマン積分をしていることになるのである.
ルベーグ積分の理論が成立した後,ダンジョワ積分などその拡張がいくつか発見された.それらには上記の問題を解決したものもあったのであろうが,少なくとも,大学における教育対象とはならず,それらの理論は忘れ去られてしまった.死滅したといってよいかもしれない.
なお,ルベーグ積分可能な関数は可測(measurable)でなければならないのだが,バナッハはクラクフ(ポーランド)の公園で測度(measure)という言葉を口にしたのがきっかけで,数学者なったとの逸話がある.
(1)バナッハは数学者になりたかったが,迷ったあげくルボフの工科大学校に進学した.
(2)卒業後の消息は不明.世界大戦には徴兵されなかったが,道路工事をやっていたとか,ヤキェヴォ大学(クラクフ大学,コペルニクスにゆかりがある)で偽学生をしていたらしい.
(3)その後,バナッハはすでに数学者として名をなしていたスタインハウスと遭遇,スタインハウスが解決できなかった実解析の問題を即座に解決した.
(4)ポーランド独立後,ポーランド独自の数学を作る機運が高まり,バナッハはスタインハウスとともにツヴォフ学派の領袖となった.
【補1】スティルチェス積分
リーマン・スティルチェス積分,ルベーグ・スティルチェス積分などスティルチェスの名を冠した積分があるが,これは積分のときに,dxの代わりに
dg(x)(gには特定の条件をつける)
を使うのもので,曲線,曲面にそった積分と考えて良いでしょう.
たとえば,確率論で特定の分布による期待値の計算,ベクトル解析の面積要素による積分,関数論での曲面にそった積分などは,この範疇に入ります.
実際の計算では,g(x)が微分可能と仮定して,
dg(x)=g'(x)dx
として,普通の積分に帰着させます.
【補2】平均・分散のない分布
トリッキーに思われるかもしれませんが,母平均や母分散は常に存在するとは限りません.たとえば,
f(x)=1/π(1+x^2) -∞ を取り上げてみましょう.この関数は∫f(x)dx=1/π[tan^(-1)(x)]=1ですから確かに確率分布(コーシー分布)です.しかし,この確率分布は偶関数だから平均は0であると単純に考えてはいけません.0は中央値ではあっても,この分布は平均をもたないのです. 実際,∫xf(x)dxのリーマン積分は1/π*1/2log(1+x^2)であり,積分∫xf(x)dxは不定形∞-∞となるから定義されません.平均値が定義されないならば,もちろん,分散も定義されないということになります. コーシー確率変数が平均値0をもつという命題は,確率論の観点からすると,コーシー分布に対しても中心極限定理が成立することになり,正しくないだけでなく危険でもあります.繰り返しになりますが,重要なことですのでもう少し,考察してみましょう. コーシー分布では,グラフの対称性からその平均値が0であると定義するのは自然と思えます.実際,対称性を利用して有限区間を無限区間まで拡張して考えると,その値は0となります. lim(a→∞)∫(-a~a)xf(x)dx=0 このことから,いかなる平均値ももたないと主張することのほうが大袈裟だと思われるかもしれません.しかし,リーマン積分では,a,bを独立に無限大としたときの極限値 lim(a→-∞,b→∞)∫(a~b)xf(x)dx が収束することを要請しているのであって,この値は不定形∞-∞となるから発散,すなわち,平均は存在しないと考えるのです. コーシー分布以外の確率分布では,ブラウンノイズ関数 f(x)=1/√(2π)x^(-3/2)exp(-1/2x) も,平均値をもたない分布として知られています. また,離散分布でも,平均値の存在しない確率分布があり,たとえば, p(x)=6/π^2x^2 (x=1,2,3,・・・) 調和級数となるため,無限大に発散してしまいます. 実用上用いられる密度関数は連続関数であり,さしあたってリーマン積分で十分であろうと思われますが,その場合,ルベーグ積分とリーマン積分は一致します.したがって,コーシー分布やブラウンノイズ関数に対してはルベーグ積分であってもうまくいきません. なお,離散型,連続型以外の特異型分布関数もあり,たとえば,カントル階段関数は特異型分布関数の1例です.特異分布に対してはルベーグ積分の概念が必要になることを申し添えておきます.
の平均値は
6/π^2(1/1+1/2+1/3+・・・)