アンドレ・マリー・アンペール(Andre Marie Ampere 1775/1/20-1836/6/10) top 伝記
フランスの物理学者で、アンペールの法則を発見した電磁気学の創始者の一人です。電流の単位のアンペア(A ampere)はアンペールの名にちなんでいます。
アンペールはフランスのリヨンで生まれ、学校には通わず、特別な教育を受け、父親はまずラテン語から教えましたが、数学に対する素養があることを見抜き、集中的に数学を教えました。ユークリッドとベルヌーイ数学に関する研究を学ぶために自らラテン語の学習を再開し数学の文献を読破しています。18歳のときには当時の数学についての研究成果を学び終えていたといます。また、読書は幅広く、歴史や紀行、詩、哲学、自然科学等を好んでよんでいたとも言われています。
1793年にリヨンが国民公会の軍隊によって占領(注)され、アンペールの父親はフランス法廷に勤めていて、フランス革命は行き過ぎであるという態度を断固としてくずさなかったために投獄され、断頭台(ギロチン)で死刑になってしまいます。
このようなことがあって、1年以上も無気力な期間があって、古典詩人の研究、さらに詩作へと関心が移っていっきます。
1797-1802年までバーグのエコールセントラルで物理と化学の教授を務め、1809年から1828年には理工科大学の数学教授を務めています。
この間、1820年にコペンハーゲン大学物理教授エルステッドが、電流の流れている導線を磁針に近づけると、磁針が振れることを発見し、磁気と電気とは密接な関係にあることを証明したとの論文が公表され、1820年9月11日にパリの科学アカデミーでアラゴ(Dominique Francois Jean Arago アラゴの回転盤で有名)によってこの発見が報告されると、これに感銘を受け、すぐ実験を行い、僅か二週間で実験に成功し、その結果を1820年9月18日に科学アカデミーに報告したのです。
この論文では二本の導体に電流を流し、その間に働く磁気の作用を観察し、互いに引き合うときは、電流は同じ方向に流れ、互いに斥け合うときは反対の方向に流れていること、電流の方向を右ネジの進む方向として、右ネジの回る向きに磁場が生じることを発見した。これを「アンペールの右ねじの法則」といいます。また、二本の平行な導体の間で電流による磁気の作用を数学的に厳密に解析してアンペールの法則を発見しました。
二本の平行な導体の間で電流の磁気作用によって発生する力は電気の基本単位である電流の強さを定義する式になっています。また、この方法は当時の厳密な電流測定方法とされていました。
電流の流れているコイルの磁気的性質についても研究し、このコイルをソレノイドと名付けました。
ベクトルという方向を持つ量の概念を導入しました。
(注)フランス革命によって1792年9月、立憲君主制の憲法である「1791年憲法」に基づいていた立法議会が廃止されました。そして財産や納税額によらず全ての男子に選挙権が与えられ(男子普通選挙)、選挙によって新しい議会(国民公会)の議員が選ばれました。
国民公会は、王政を廃止し、1792年9月21日に共和政樹立を宣言した(フランス第一共和政)。そして国王ルイ16世を裁判にかける。戦争の際王がフランス政府と国民を裏切っていた証拠が数多く出てきた為、賛成387対反対360の僅差で国民公会はルイ16世の処刑を議決し、1793年1月21日、二万人の市民が見守る中、国王ルイ16世がパリの革命広場でギロチンによって処刑され、10月にはマリー・アントワネットも後ろ手に縛られ肥料運搬車で市中引き回にされてからギロチンによって処刑されました。
国民公会に批判的な連邦主義者は地方の王党派と合流して反乱を起します。これに対向して国民公会は反乱を鎮圧しました。特に、徹底的に鎮圧されたのは3県で、そのひとつがリヨン(Lyon)でした。「リヨンは自由に挑戦した。リヨンはもはや存在しない」と、国民公会は宣言しました。リヨンの名は共和国の都市名から削除され、ヴィル・アフランシー(解放市)とされました。