ヘルツの実験
1887年ヘルツの送信機は誘導コイルによって2個の球に充電して球体間の小さな隙間で火花放電するもので、受信機は両端に小さな球を付け金属線を輪状に曲げて小さな隙間(スパークギャップ)を作り、電磁波を検出すると小さな火花放電を発生するものでした。
このヘルツの実験で発生した周波数は50MHzから500MHz(波長5mから0.5m)程度と推察されています。
ヘルツ以降は電磁波を無線電信に使用する試みが多くの人によって実施されました。
その実現には送信機の出力の増加と受信機の感度を高める必要がありました。
その第一歩は、送信機の電源を強化することが必要で、ライデン瓶(コンデンサに静電気を蓄える)から電池や発電機への変換する必要がありました。また、電磁波を効率的に放射するアンテナの改良と同調回路の改良等がありました。
次に、受信機にはヘルツが発明したスパークギャップガ使用されていて、それで火花放電を発生させるには高い電圧が必要でしたので、送信機から遠く離れると電波が弱くなることから、長距離での電波の受信は困難でした。
無線信号を受信する能力を高める方策として考えられるのは、信号を増幅することですが真空管が無かったので信号の増幅は出来ませんでした。 これを克服するにはまず低い電圧で動作する電波検出器のの実現ですが、それは偶然からコヒーラや鉱石検波器の発見へと発展していきます。更に、真空管の増幅作用が利用できるようになると受信感度が飛躍的に向上し無線電信が実用化の域に達します。
マルコーニ(Marconi)の実験
1896年はヘルツの送信機にアンテナとアースを付けて2.5kmの無線電信に成功します。
1901年12月に英国のコーンウォールのポルジュ(Poldhu)に送信局を建設し、カナダのニューファンドランド島のセントジョンズ(St. John’s Newfoundland)の近くのシグナルヒル( Signal Hill)(地図参照)で受信しました。
1902年10月にはアンテナと送信機の大型化を進め送信周波数は272kHz なりました。
1902年12月にはカナダのノヴァスコッティア(Nova Scotia)のグラスベイ(Glace Bay)に大規模な無線局を建設しました。
1904年には英国に傘状のアンテナで周波数が70kHzでした。
1905年には高さ55m、305mのアンテナ線を200本水平面で放射状に設置し周波数が82kHzでした。
1907年には45 kHzに変更されました。
長距離通信を安定的に実施するには低い周波数が有利であったことを示しています。まだ、電離層の存在に気づいていませんでしたが、電離層の特性を非常に上手に利用しているのです、
マルコーニの無線局
ポルジュ無線局(Poldhu Station)の送信機
初期の送信機には垂直にアンテナ線(銅線)を設置したアンテナで、受信機はコヒーラを装備していました。送信機と受信機は同調が取られていませんでした。
1898年ブラウン(Karl Ferdinand Braun)によって同調回路が考案され、目標の周波数を効率よく放射できるようになりました。それは火花放電回路にコンデンサを接続し、アンテナとの接続に変圧器を使用する方法でした。
1900年マルコーニは大西洋横断無線通信を提案し、英国のアイルランドの南東にあるコーンウォールのポルジュ(Poldhu標高150 m)、1901年9月17日には嵐でアンテナが倒壊し、11月26日には受信側のアンテナも嵐で倒壊しました。
1901年のポルジュ(Poldhu)での送信機は2段階になっていて、1次側は低い電圧で動作し、2次側の電圧を高めるためのもので、2次側では約150kV程度になります。蒸気機関で駆動される交流発電機(AC generator)が使用され、出力は約37KVA(1500V、25A)の容量がありましたが、毎秒36回放電する予定でしたが、発電機の容量が不足していました。後の歴史家たちの推定では1次回路は毎秒7.5回から12回の放電回数で、2次回路は毎秒2~3回しか放電できなかったと推定されています。
マルコーニ送信機
後にフレミングは回転放電方式の送信機に変更しました。
電源は蒸気機関で駆動される15KVの直流発電機(5KV×3台)で、放電する為に放電用の電力を蓄積する数千個の鉄板でガラスをはさんで作られたコンデンサーに充電するものでした。
5フィートの火花放電円盤の円周には16本のボルトが付いていて、電極に近づくと15KVの電圧で火花放電が発生し、毎秒350回の火花放電を発生させるもので、消費電力は100kWから300kWで、送信所は轟音に包まれ、数キロ離れた所でも聞こえるほどでした。
ポルジュ無線局(Poldhu Station)のアンテナ
高さ60mの20本の支柱を直径60mの円形に建て、円錐形に電線を400本設置、1901年9月17日嵐でアンテナが倒壊し、11月26日には受信側のアンテナも嵐で倒壊しました。送信側に仮説のアンテナ(高さ48m、幅60m)を作りました。
歴史家(Ratcliffe)たちは大西洋横断通信に使用した送信局から送信する周波数の調査結果は約 850 kHz(波長353m)で、理想的な周波数(50から200kHz)よりも高い周波数であったことを明らかにしています。しかし、その時使用した装置等の詳細な仕様は不明ですので、850kHzよりも低いあるいは高い可能性もあります。
マルコーニはこの周波数に関して明確に言及していなくて、マルコーニの理論面をサポートをしていたフレミングは1903年の講義において大西洋横断通信に使用した波長は1000フィート(約300m)以上と言っています。その通りであれば、アンテナの長さは理想的な長さの約1/5しかなかったと推測されています。1908年3月13日になって、マルコーニの英国王立協会(Royal Institute)での講演の中で、その波長が1200フィート(約360m)であったことを表明しています。従ってアンテナの長さは理想的な長さに比べかなり短いものでしたから、850kHzの電波の放射効率はかなり低かったと推察されますし、もしそれよりも低い周波数では更に電波の放射効率は低下します。
(ところで話は外れますが、アンテナの記号が、どうしてあのような形になっているかが理解できたのではないでしょうか。)
受信地点シグナルヒル(Signal Hill)
1901年12月にマルコーニはシグナルヒル(Signal Hill)の使用されなくなった陸軍病院に機器を設置、受信側の準備が完了しました。ポルジュ(Poldhu)に電信線が通じていて、それによってモールス符号の「S=短点3個」を午後3時から午後7時まで繰り返し送信するように要求しました。
1901年12月12日風の強い日に凧を揚げ155mの電線を繰り出したが風に流され、次の凧は152.4m電線を繰り出しその端を受信機に接続しました。この日は風が強く凧の位置は変動したと予想され、アンテナの高さが変動したことから受信周波数をけめるのが難しかったと考えられるのですが、マルコーニは受信周波数を送信周波数にどのようにして一致させた(同調を取る)かについての説明がありませんでした。これは受信感度を高めるための重要な課題ですが、その点についてはふれたがりませんでした。
また、電波の検出には3種類のコヒーラを使用したことのみを説明していますが、従来、金属の削り屑を入れたコヒーラを使用していて、それよりも感度が10倍から100倍高いと考えられるイタリア海軍のコヒーラを使用したことを死ぬまで言いませんでした。
マルコーニの研究日誌には12日(木)[Sigs at 12:30、1:10、2:20]、13日(金)[1:38]との記載があり、この研究日誌はマルコーニ会社の公文書になっていなすが、12:30、1:10、2:20、翌日の1:38(現地時間)に受信に成功したことを示しているとされていますが、今日では大西洋横断無線電信に成功した証拠はこれだけが唯一のものです。
マルコーニの研究日誌
電離層の特性
歴史家は太平洋横断通信に成功した時点で受信地点シグナルヒルでの電波の伝播状態(電離層で電波が反射されるときに、その電波がどの程度の減衰をうけるか)を推測しました。
マルコーニが太平洋横断通信に実際に使用された周波数が850kHzであれば、実験を行ったのが日中であることから、たとえ、電波の伝播にとって考えうる最適な状態(冬で、太陽の黒点が非常に少なかった時期)であったとしても、この周波数の電波は大きな減衰を受けることになり、さらに、同調回路の無い受信機は同調回路のある受信機の10から100分の1程度の感度しかないこと、その数年後にフェッセンデンの大西洋横断通信の実験に使用されたバレッタ(barretter)検出器やガレナクリスタル(galena crystal)検出器を使用していないこと等の事実に基づいて推測すると、マルコーニの大西洋横断通信の実験で、無線信号を受信することは非常に困難なことであったと推察されます。
マルコーニは大西洋横断通信を実現するためには技術的に解決しなければならない問題を段階的に幾つかの実験を実施しながら解決したはずですが、そのような形跡(研究記録)が発見されていません。特に、アンテナの大きさは送信する周波数の放射効率に直接影響することから、アンテナの設計には段階的な実験によって使用する周波数を決定する必要があったはずですし、また、各周波数における伝播特性についても調査する必要があったはずですが、現在歴史家達が調査したところでは、いまだに、マルコーニがそれらの調査・研究を実施した形跡が見つからないというのが、現在の状況のようです。
大西洋横断通信における通信状態の変化(電界強度の変化)に関する最初の記録がとられたのは、1906年1月の1ヶ月間に記録されたもので、フェセンデンの米国(MA)のプラントロックの無線局とスコットランドの(Machrihanish)無線局間で実施され、夜間のデータが残されていて、昼間のデータは存在しません。これは、夜間に電波が受信され、昼間には受信できなかったことを示していると考えられます。そして、電波を吸収する強度は地磁気の変化に対応し、地磁気の強さが強くなると電波の吸収も強くなることを示していました。
また、1907年の春から夏にかけて2735kmはなれたブラントロックと西インド諸島との間で電波の伝播実験が実施されました。使用された周波数は50から200kHzで、周波数が高くなると電波の吸収も大きくなること、そして、日中でも明瞭な電文の交換が可能であること、それより高い周波数での日中での通信は困難であることが分かりました。80kHz以下の周波数においては電波の放射効率の低下が大きく実用的でないことが判明しています。
明確な証拠のある大西洋横断電信
1902年10月 アイルランドのポルジュ(Poldhu、Cornwall)からカナダのニューファンドランド島のシドニー(Sydney)(地図参照)に停泊中のイタリアのクルーザでマルコーニが乗っていたカルロス・アルベルト号の間で、周波数272kHzで成功した記録があります。。
1902年12月5日(Poldhu、Cornwall)とのグラスベイ(Glace Bay)(地図参照)の間で両側からの通信に成功した記録があり、周波数182kHzです。
1902年12月15日カナダと英国でポルジュ(Poldhu、Cornwall)とグラスベイ(Glace Bay)間の通信(ロンドンタイムズ紙のニュース)を傍受して記録があります。
1903年1月18日米国サウスウエルフルート(South Wellfleet, MA)~ポルジュ(Poldhu)に米国ルーズベルト大統領から英国の国王エドワード7世にメッセージが送られた記録があります。
1902年~1912年までのグラスベイとクリフデンの無線局では放電円盤が使用されていて、(400本のアンテナ線を高さ61mの4本の支柱に取り付けて逆円錐型のアンテナ)で周波数が182kHzでした。(アンテナトランスを変更?)
しかし、受信機にはコヒーラが使用されていて、マルコーニは1908年までは信頼できる大西洋横断電信を実現できていませんでした。
1909年マルコーニはノーベル賞を受賞します。
その受賞講演で無線電信の分野で先駆的な仕事である長距離電信に最初に挑戦するにあたっては、予期した障害や困難な状況は、容易に解決できるが、そうでない障害が発生するとその解決策もまた予期できないものですと話しています。
マルコーニは1901年大西洋横断電信に成功してからは、無線電信の信頼性の向上と通信距離の拡大に努力しています。
1906年1月10日に最初の双方向の大西洋横断無線電信がフェセンデンの無線局ブラントロック(米国MA)とスコットランドの(Machrihanish)の間で定期的に電文が交換され、その年の初夏まで継続しました。その時使用された周波数が80~100kHzでした。
その信頼性と品質(signal-to-noise ratio S/N比)はマルコーニのものよりも優れていました。そのアンテナは128mの高さの支柱にアンテナ線を傘状に接続し、傘の頂上に送信機の出力を接続したもので、マルコーニよりも電磁波の放射効率が数倍も高かったようです。
1907年の10月以降マルコーニはそれまで使用していた周波数を変更して、70kHzから実験を開始してすぐにグラスベイとクリフデン間(3000km以上)の通信に成功し、この同じ信号をプラントロック(4800km)でも受信できました。少し後には45kHzで実験をしています。
フェッセンデン(Fessenden)の無線局
マルコーニに少し遅れて大西洋横断無線電信に成功したフェッセンデンはマルコーニと違ったアプローチをしました。
フェッセンデンの無線局では送信機が火花放電方式からアーク放電方式そして、高周波発電機方式に移っていきます。
1901年5月29日の特許No706787は約10kHzの高周波発電機でしたが、その実現には長時間を必要とし、1906年まで実用化できませんでした。
フェッセンデンは音声を電波で送ることに関心を持ち、1903,1904年には、アーク式の送信機で音声を送る実験に関心を持ちましたが、マルコーニの大西洋横断電信の成功に刺激され、回転火花放電式の電信用の送信機を作りましたが、長距離通信には超高周波数が適していないことが分かってきました。
そこで、アーク式の送信機に電力を供給している蒸気機関で駆動される交流発電機の出力を直接回転火花放電式の送信機に接続するもので、直径1.8mの円盤に、50個のポールがあり、固定電極が4個のもので、35kVAの交流発電機で駆動されました。交流電気の波形が最大値のときに強い電波を出すことから、円盤の突起が電極に接近するのと電圧が最高値になるのが一致するようにしたもので、125Hzの発電機で750回の火花放電が発生する同期型送信機を作りました。
1906年の夏にアレクサンダーソンの高周波発電機(50kHz)がGE社で完成し、フェセンデンのブラントロック(地図参照)の無線局に設置され、さまざまな改良が施され、秋には75kHz・1.5kWでCW送信機として動作するようになりました。
遂に、プラントロック(Prant Rock MA)とスコットランドのMachrihanish間(地図参照)での大西洋横断無線電信の実験に成功します。その時のアンテナは高さ420フィート()の傘型アンテナの頂上に送信機からの出力を接続するもので、80kHzに同調されていました。
無線電話による大西洋横断通信
1906年夏にフェッセンデンは音声を電波に乗せるために発電機とアンテナの中間にマイクロホーンを取り付けました。しかしAM送信機は完成しませんでした。
1906年秋にはフェッセンデンのブラントロック無線局の高周波発電機が100Khz以上の周波数で動作するようになり、11月には短距離での無線電話による通話テストを開始しました。以外にも、この通話テストはスコットランドの(Machrihanish)で聞き取ることが出来ました。フェッセンデンの装置はその日の朝方の数時間非常に良く動作し、スコットランドから電信で音声が聞こえたことが知らされてきました。
1906年12月5日スコットランドの無線局のアンテナが嵐で倒壊し、この実験は中断しました。
1906年のクリスマスイブに最初のラジオ放送をプレゼントしました。
フェッセンデンはブランとロックの無線局からヘンデルのラルゴをバイオリンで演奏し、聖書の朗読とクリスマスソングを放送しました。海軍の艦船や果実運搬船の無線通信士など大西洋側や西インド諸島でも聞こえたようです。この放送は大晦日まで続けられました。
送信機は高周波発電機と水冷の炭素マイクを直接アンテナに接続していました。