真鍮の歴史について解説

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古代の真鍮(黄銅)製造技術

 亜鉛を含む銅合金を作るには、銅の融点が1084.4 ℃であるのに対し、亜鉛の沸点が907℃であることから、銅を製錬するとき銅が溶け出す前に亜鉛は蒸発してしまいますので、青銅に用いる錫の沸点が(2602℃)であるのとことなって、亜鉛を銅に混ぜるための工夫が必要です。

 古代に技術は亜鉛鉱石のカラミンを加熱して酸化亜鉛を作り、これを炭と一緒に加熱して亜鉛のガスを発生させ、亜鉛ガスを加熱した銅(800℃;融点に低い金属を入れると融点が下がる)の中に浸透させて銅と亜鉛の合金(黄銅)を作るセメンテーション法(cementation process)といわれる技法であったようです。

 それ以前の古代エジプトの銅には数%の亜鉛が含まれているものが発見されていますが、意図的に亜鉛を含ませる工夫をしたものではなく、銅鉱石に含まれていたものが偶然に混入したものであると考えられていて、意図的に亜鉛と銅の合金を作ったもとしては亜鉛の含有率が8%程度以上含まれているものを指すようです。

真鍮の歴史

  亜鉛は少なくとも4000BC年ごろから銅との合金である真鍮として使用されて来ました。
30BC頃にはローマで真鍮が造られていたことが知られていて、利用された亜鉛鉱石はカラミン(Calamineわずかな酸化第二鉄を含む酸化亜鉛)で、カラミンの粉と木炭と銅をるつぼに入れて加熱して真鍮が作られ武器などに加工されました。

 ローマ時代になると真鍮に関する文献資料があり、ローマ帝国の初代皇帝であるアウグストゥス(Augustus:20BC-14)の時代には貨幣(coin)が作られていたことが記載されています。また、真鍮(亜鉛11~28%)で作られた兜に金メッキして、黄金色に輝く兜が作られとことも知られています。
12世紀にインドでは綿を還元剤として金属亜鉛を製錬していて、その技術は16世紀には中国に渡り亜鉛が生産され、真鍮が作られていました。
ヨーロッパでは亜鉛が忘れられていて、中国やインドから逆輸入され、産業革命の波に乗っていくことになります。
1743年に(William Champion英)が亜鉛の製法を確立し、1758年に特許を取得します。
1746年にはアンドレアス・マルクグラーフ(Andreas Sigismund Marggraf独)はコークスと酸化亜鉛を、空気を断つて加熱し、金属亜鉛を効率的に作るのに成功しました。この手法が金属亜鉛の大規模生産へとつながり、真鍮の生産につながっていくことになります。
1798年にJohann Ruberg () は水平レトルト製錬(horizontal retort process耐火性容器に石炭と亜鉛鉱石を入れて加熱して亜鉛を蒸留精錬する方法)で亜鉛製錬工場を建設しました。
1832年には銅60/亜鉛40の真鍮が発明され、安価な真鍮の板が製造されるようになり、船舶用の銅製品が真鍮製に取って代わるようになりました。
1836には亜鉛メッキ(Hot-dip galvanizing)がフランスで発明されました。
1840年大になると安価な真鍮の板が製造されるようになり、船舶用の銅製品が真鍮製に取って代わるようになりました。